明治鋼業の歴史は決して成功の連続だったわけではない。新たに立ち上げた事業がなかなか軌道に乗らない時もあれば、商品開発や特許取得のため試行錯誤を重ねた時もあり、幾度となく壁にぶつかってきた。もっとも高度成長期終焉後の鉄鋼業界は不景気の時代が長く、明治鋼業も向かい風の中での経営を強いられてきた。そのような環境下でも歩みを止めることなく、100周年の節目を迎えられたのは、成長をあきらめず、明治鋼業の可能性を信じて、未来を切り開いてきたキーマンたちの存在が大きい。ここでは各時代の社員と共に奮闘し、会社の発展に尽力してきたキーマンたちの横顔に迫る。
01
百年企業の礎築いた中興の祖
二代目社長の西山晃は明治鋼業の歴史の中で、いくつもの分岐点を迎えてきた。めっき鋼板専業への事業転換に始まり、仕入れ先メーカーの変更、コイルセンターの立ち上げ、フォーミング事業への進出と、そのキャリアは決断の連続であった。それらの選択はすべて今日の明治鋼業の姿につながっており、この時代に百年企業の礎が築かれたといっても過言ではない。中興の祖として明治鋼業の発展に貢献した西山晃の人物像を紹介する。
設立間もない明治鋼業に入社
西山晃は昭和4年(1929年)4月17日、西山伝平の次男として生まれた。当時といえば、明治鋼業の前身である西山銅鉄店の創業から5年半が経ち、商売が軌道に乗っていた頃で、前年の昭和3年に創業の地の荒川区尾久から同区三河島へ事務所を移転している。
昭和27年に明治大学を卒業した晃は伝平の指示で明治鋼業に入社することとなった。当時は明治鋼業がまだ設立から4年を迎えようとする頃で、兄の繁が社長を務めていた西山合名会社(現西山鋼業)と比べて人手が足りていないという事情もあったが、伝平の思いとしては、ゆくゆくは晃に継がせようとの親心があって明治鋼業に導き入れたのだろう。学生時代から家業を手伝いに出入りしていた晃の入社は社員からも歓迎された。
厳しかった父・伝平
ただ、入社してからは苦い思いをすることも少なくなかった。父・伝平は明治生まれで、山梨の農村から上京し、腕一本で立身出世した人物。自分にも厳しいが、他人にも厳しい。息子たちには人一倍厳しく接した。伝平の中では、かわいい子に旅をさせるつもりで指導しているのだが、周りの社員が見ても「もう少し楽をさせてあげても良いのでは」と思うほど、叱咤する場面が多かったという。
晃が専務取締役に昇格し、実務を取り仕切るようになると、伝平から息子たちへの指導も厳しさを増した。この頃の伝平は午前中、会長を務める西山鋼業へ立ち寄り、午後から社長を務める明治鋼業に出社するというパターンの日が週に数日あった。伝平は明治鋼業に出社すると「三河島(西山鋼業)に負けているぞ!しっかりやれ!」と言って競争心をあおった。
当然、西山鋼業に行けば、同じように兄にも発破をかけていたのだろうが、本人は知る由もない。次男ゆえの兄への対抗意識も少なからずあった。伝平の思惑通りだったかどうかは定かでないが、この頃に醸成された負けん気の強さは明治鋼業の発展への原動力となった。
初の工場立ち上げを主導
明治鋼業の本格的な鋼材加工への進出は昭和45年の浦安工場(コイルセンター)開設だが、実はその5年ほど前にシャーリング工場を開設していた時期がある。東京・亀戸に工場を構えていたユーザーが倒産し、債権が最も多かった明治鋼業が工場の土地・建屋を引き継いだ。
跡地の活用策として、シャーリング加工を始めることを決め、伝平の命を受けた晃が責任者として亀戸に赴任した。明治鋼業としては初の工場運営だったが、晃はこれを難なくこなし、伝平も息子の後継者としての成長ぶりを実感した。
遅咲きの社長就任
ただ、社長交代のタイミングは難しく、伝平は業界団体の要職を数多く引き受けていたため、自身の社長の肩書きを外しづらいと感じていた。自ら神田の地を選んで立ち上げた明治鋼業への思い入れも強かった。
しかし、晃としてはすでに実質的な経営は任されていたとはいえ、いつまでも肩書きが専務のままでは収まりが悪い。最後はしびれを切らし、「そろそろ社長を譲ってもらわないと、自分も年寄りになってしまう」と直訴しての社長交代だった。
就任時の年齢は44歳。オーナー企業では遅い部類に入るが、父の背中を越え、満を持して社長に就いた晃には、これからやりたいことがマグマのように溜まっていた。その有り余るエネルギーと情熱が現在の主力事業であるコイルセンター事業とフォーミング事業の発展に注がれ、今日の強固な経営基盤に結びついている。
慎重かつ大胆に行動
晃の娘婿で現社長の井上憲二は「先代は『熟考の人』だった」と回顧する。「何事も考え抜いて結論を出すのが常だった。ただし、決定すると行動に移るのは早かった」という。晃が決断してきためっき専業への転換や仕入れ先の変更なども全て熟考を重ねた上での結論だったのだろう。だからこそ、大きな決断を下してからは多少のことでは動じず、コイルセンター事業もフォーミング事業も苦しい船出の時期に将来の成功を信じて歩みを止めなかった。
晃が残した言葉に次のようなものがある。
- 「クオーター乗り入れ」
- 自分の仕事分野だけでなく、他人の分野にも目を配り、いつでも連携できるように視野を広く持つよう説いた。縦割りの弊害を戒めた言葉である。
- 「不況時の設備投資」
- 景気の良い時に次に何をやるか考えておき、不況の時が来たら実行する。不況時には人手も余るし、価格や工期にも利点があると考えた。「景気の良い時は腹が痛い顔をして、何もするな。悪い時に使えば、2倍分使える」とも言っていたという。
30年にわたり番頭として補佐した現相談役の小野寺勝夫は晃が口癖のように「私は、貧乏は嫌いだ」と常々言っていたと語る。その意味するところは会社がしっかり稼いで国に税金を納めることと、社員に不自由なく生活できる給料を支払うこと。この二つを果たすことが社会に対する企業の役割であるとの信念を抱いていた。
余暇の大半を船上で過ごす
鉄鋼業界はゴルフを通じた社交が盛んだが、晃はゴルフよりも船で海に出るのが好きだった。ゴルフは人数が限られるが、船なら20~30人は乗れる。幹部以外の社員も参加できるのが船遊びのいいところだと語っていたという。
きっかけは浦安鉄鋼団地の造成時に漁業権を放棄した浦安市の漁師から木製の「べか舟」を購入したことで、そこにテーブルを取り付けて、数人で宴会を楽しむところから始まった。慣れてきたところでエンジン付きのボートを買い、それでも飽き足らなくなると、昭和50年ごろに定員38人、全長19メートルのクルーザーを購入した。
船名は「雪風」号と命名。太平洋戦争で最後まで生き残り、奇跡の駆逐艦と呼ばれた「雪風」にあやかった。38人乗りだが、実際には20人程度でゆったりと乗船し、船上で釣りなどを楽しんだ。
気配り、思いやりを欠かさない人柄
会社では仕事に関しては幹部としか言葉を交わさず、特に小野寺が番頭格となってからは小野寺以外の社員とは込み入った仕事の話を一切しなかった。ただ、それは晃の経営哲学によるもので、社員とのコミュニケーションはむしろ積極的にとった。3カ月に一度は夕方になると、晃が社員に声をかけ、「行きたいやつはついてこい」と言って、毎回十数人を引き連れて、浅草のふぐ料理屋などに繰り出した。二次会はカラオケに行くのが定番のコースだったという。
母校の明治大学も気にかけ、自身が在籍した空手部をはじめ、体育会の活動を支援し、学生からは面倒見の良いOBとして慕われていた。晃の発案で昭和62年には明治鋼業による奨学金制度を創設。現在も学業成績が優秀で援助が必要な明大生を対象に毎年給付している。
02
先代の遺志継ぎ、挑戦する風土守る
2000年4月、井上憲二が明治鋼業の三代目社長に就任した。井上憲二は西山晃の長女の夫である。彼は小田原で実家の家業である青果物の卸売りと自動車教習所等の経営に当たっていた。西山晃が急病に倒れたため、急拠呼び出された。それまで明治鋼業の取締役になっていたので、役員会等には出席していたが、鉄の仕事の経験はゼロに等しい。それを支えたのは小野寺勝夫(当時 専務取締役)であり、古田孝仁(当時 常務取締役)であり、明治鋼業の社員たちであった。
組織がしっかりと出来ていたので大きな混乱はなかった。
しかし当時は鉄鋼不況の真っ只中。鉄鋼メーカーや商社が合従連衡を進める最中であった。そんな状況下でも何とか乗り越えられたのは西山晃が次の時代に向けて蒔いた種がいくつかあったからである。一つは「合成床板」である。国交省の認定も取り、いつでも販売できる状況になっていた。当時は郊外型のショッピングセンターの出店が数多くあり、店舗や立体駐車場向けに販売し、大きな支えになった。もう一つは「スチールハウス」である。ロールフォーミングの技術を生かし取り組んだ。これもアパート等の建築ブームもあり、大きな支えとなった。こうした新しい技術・商品にチャレンジする姿勢が苦境を乗り越える原動力になった。
井上憲二が社長就任してまもなく、新工場建設の計画が持ち上がった。当時明治鋼業の工場は浦安鉄鋼団地内に四カ所あり、集中していた。
浦安鉄鋼団地は埋立地であり、阪神・淡路大震災の経験から液状化現象が懸念され、生産拠点の分散化が急務であった。地盤の良さや交通の便を考慮し、十数カ所が検討され、栃木県佐野市の工業団地に決定した。
移設に際していくつか問題が発生した。当時浦安第三工場にはレベラーが二ラインあった。当初は一ラインを佐野に移設する予定であったが、レベラー移設には相当の費用がかかることと稼働するための人員の確保が難しかった。結局浦安第三工場には一ラインのみ残し、一ラインは売却することとし、フォーミングラインのみ佐野に移設した。
もう一つの問題は浦安工場には社内下請が数社入っており、この対応であった。交渉は難航したが、下請契約は打ち切り、下請の社員のうち希望者は全員明治鋼業で受け入れた。
その後栃木工場は増築を経てフォーミング製造の一大拠点に成長している。
平成27年にアライ技研を子会社化している。加工機能を高め、お客さまのニーズにより深く応えるために貢献している。
井上憲二は業界団体にも尽力している。
平成25年度に神田鐵栄会会長就任
平成30年度に東京鉄鋼販売業連合会 会長就任
令和5年度に全国鉄鋼販売業連合会 会長就任
その他、浦安鉄鋼団地協同組合 理事
全国コイルセンター工業組合 理事
関東コイルセンター工業会 理事
を務めている。
井上憲二は業界団体にも尽力している。
平成25年度 神田鐵栄会会長就任
平成30年度 東京鉄鋼販売業連合会 会長就任
令和5年度 全国鉄鋼販売業連合会 会長就任
その他、浦安鉄鋼団地協同組合 理事
全国コイルセンター工業組合 理事
関東コイルセンター工業会 理事
を務めている。
03
初代から三代にわたり仕えた名番頭
明治鋼業の100年の歴史の中で、約60年にわたり会社を支えてきた現相談役の小野寺勝夫。初代から三代にわたり仕え、二代目社長の西山晃と三代目社長の井上憲二の下で番頭を務め、四代目となる専務取締役の井上雄太の指導・育成にも尽力した。実直で己に厳しい働きぶりは社員の鑑となり、仕事熱心で人情味溢れる人柄は仕入れ先や客先を虜にし、多くの関係者に慕われている。明治鋼業の発展に大きく貢献し、今なお社内外から信望を集める小野寺の歩みと功績を振り返る。
生い立ちから明治鋼業との出合いまで
昭和15年、宮城県の農家に生まれた。戦中から終戦直後にかけての厳しい時代に幼少期を過ごし、兄と共に朝方3時に起きて牛の飼料となる草を刈りに行き、牛の好物である刈りたての草を与えながら、川で体を洗ってあげるのが日課だった。農閑期はひたすら藁で米俵を作り、収穫後は米俵一俵(60キロ)を担いでリヤカーに載せ、農協まで運んだ。小野寺は「当時は米俵を担げないと一人前の男ではないと言われた時代だった」と回想する。全国を営業で飛び回った持ち前のバイタリティーはこの頃に養われたものだろう。
高校卒業後、上京した小野寺は「手に職をつける」という志を胸に製造業の世界に飛び込んだ。最初の職場となった工作機械メーカーではフライス盤の操作や図面の読み方を習得した。当時の日本経済は高度成長期が幕を開けたばかり。重厚長大の産業が勢いよく伸び、地方への進出や移転も盛んだった。小野寺も仕事に慣れてきた矢先、北海道への異動を打診されたが、せっかく東北から上京してきたのだから、もう少し東京で頑張りたいとの思いもあり、これを固辞して新たな職場でスキルを磨くこととした。
製造業大手で鉄道車両ドアの製作やストーブの組立・溶接などを経験したのち、日本鋼管(現JFEスチール)グループ会社の日本鋳造に移り、クレーン運転士の資格を取った。日本鋼管の工場の応援にも回るほどの活躍を見せていたが、開設間もない福山製鉄所への転勤を打診され、またしても職場を離れることになる。「できれば、しばらくは転勤のない会社に勤めたい」と考え、知り合いのつてで紹介してもらった東京の会社が明治鋼業だった。
この時の小野寺は23歳。学卒なら新入社員の年齢だが、小野寺には現場で4年間培ってきた技能と経験があった。板金加工から機械加工、溶接までこなし、クレーンは修理も自分でできた。新天地で頭角を現すまで、そう時間はかからず、二十代後半の頃には器量の良い若手として、創業者で当時社長の西山伝平から目をかけられる存在となっていた。
伝平との思い出
ある日、小野寺が30歳の頃、伝平が「これからの時代はゴルフだ」と言って、ハーフセットをわざわざ買い与えてくれた。伝平は52歳でゴルフを始めた遅咲きのゴルファーだが、58歳でシングルプレーヤーの仲間入りを果たし、ゴルフはライフワークとなっていた。業界内の経営者同士や鉄鋼メーカー、商社と回ることが多かったが、小野寺のことも6回ほど連れていった。メンバーだった鷹之台カンツリー倶楽部では前半を回ったあと、囲碁を打ち、日差しが和らいでから後半をスタートするというのが伝平の流儀だったという。
伝平の人柄に触れる機会も多く、苦労人で幾多の困難を乗り越えてきたにもかかわらず、決して偉ぶることはなく、「自分は運がいい」と繰り返し口にしていた。小野寺も伝平の薫陶を受けた一人であり、「人生は運が5割。頑張っても報われない人はいるのだから、謙虚、感謝の気持ちを忘れてはならない」との教えを今も心に留めている。
心血を注いだ合成スラブの開発
フォーミング事業の立ち上げに始まり、栃木工場の開設、近年ではアライ技研のM&Aなど、会社の方向性を大きく決定づけるような計画を確実に実現させてきた小野寺にとって、最も生みの苦しみを味わったのは「合成スラブ」の開発だという。
商品化に向けた最終段階で次のようなことがあった。耐火試験を翌日に控え、性能的には問題ないとの自信はあったが、「まだ改善の余地があるのではないか」との思いがぬぐえず、当日朝になって試験場に連絡を入れ、試験の延期を決めた。明治鋼業はコイルセンター事業でもフォーミング事業でも良い品物を世に送り出すことに重きを置いてきた。「明治鋼業の製品が基準を辛うじてクリアするようではいけない」と思い返し、製品形状の斜度を変え、強度をさらに高めた上で試験に臨み、十二分に性能を満たす合成スラブを完成させた。
小野寺はハードワーカーでありながら、アイデアマンでもある。斜度の変更だけでなく、コンクリートとの合成性を高める「X型」のエンボス加工や、施工時の省力化に寄与する金具の開発、さらには他社製品よりも天井を高く取ることができる吊り金具の開発を発案。合成スラブの特許を含め、3件の特許の発明者となっている。合成スラブに限らず、小野寺が建設を主導した栃木工場では省スペースや生産性向上のための工夫が随所に確認できる。
バイタリティーの源泉
明治鋼業の中堅社員以上の世代や小野寺と旧知の仲である人は、彼の“企業戦士”時代を知っている。仙台や名古屋、新潟に出張する際は朝方4時に車で部下を迎えに行き、7時にサービスエリアで休憩し、8時半には目的地がどこであっても客先で商談を始めていた。
小野寺がハードワークを厭わないのは山本五十六・元帥海軍大将の言葉である〈やってみせ 言って聞かせて させてみて 褒めてやらねば 人は動かじ〉を信条としているからである。「まず自分が率先してやる。やっている姿を見せることが大事。営業のやり方、物の売り方もこうやって売るんだと、やってみせてあげないと部下はわからない」。
米沢藩主の上杉鷹山が遺した〈為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり〉も同じく信条とし、「常に高い所に目標を置いて、追いかけることで成長を目指してきた」。今の時代に同じような働きを求めるのは難しいが、小野寺のように献身的に会社を支えてきた先人たちの存在があったからこそ、100周年の節目を迎えられたということを忘れてはならない。